クーガーびとのこだわり #5

篠 晃喜
クーガー フルスタックエンジニア
東京都出身。前職ではウェブエンジニアとして活躍。2023年秋にクーガーに入社し、現在はフルスタックエンジニアとしてバーチャルヒューマンエージェントの円滑な活用と利用者拡大を支える。パクチーが苦手。
-卓球を始められた最初のきっかけから教えていただけますか?
きっかけは、父親がもともと趣味程度に卓球をやっていたことですね。小学生の頃、家にあったラケットを手にして、父親と一緒に遊び感覚で球を打ち合ったのがすべての始まりでした。
-その中で、最初にラケットを握った時から「これはいけるな」「自分には才能があるかもしれない」といった手応えはあったのでしょうか?
いや、当時は全くそんなことは考えていませんでした。最初はただ、ラリーが続くこと自体が純粋に楽しくてやっていたという感覚です。単純に楽しいからもっとやりたい、という子供らしい動機でした。
-では本格的に卓球に打ち込むことになったきっかけがあったのでしょうか?
その後、小学生の時に地域にある卓球のクラブチームに入会しました。それが競技としての最初のきっかけでしたね。
-そのクラブチームは、地域の卓球好きな子どもたちがワイワイ集まるような、アットホームな雰囲気だったのでしょうか?
きちんとしたスクールです。卓球場を経営されている専門の方が指導を行っていて、基礎から体系的に教えてもらうような場所でした。同年代の子どもたちがたくさん籍を置いていて、切磋琢磨しながら熱心に練習に励んでいました。
-ではそこで本格的に卓球に目覚めたということでしょうか?
はい、そのクラブチームに入って、自分と同年代のライバルがたくさんいたことが非常に大きかったと思います。そこでは毎週、チーム内でのリーグ戦のような試合が開催されていたんです。明確に実力別のランク分けがなされていて、上からA・B・C・Dという風にチームが分かれていました。
1チーム6人ほどで総当たり戦を行い、たとえばDチームで1位の成績を収めたら、翌週からはCチームに昇格して、よりレベルの高いメンバーと練習ができるという非常にモチベーションの湧くシステムでした。
-それは子供心にも火がつきそうな、面白いシステムですね。
はい。しかも、ランクによって練習の時間帯や曜日もガラリと変わるんです。「上位グループになると、何曜日と何曜日のこの時間に、特に強い先輩たちと質の高い練習ができる」という明確な決まりがありました。
その環境の中で「勝ち上がっていきたい」という競争心が芽生え、やっていくうちにどんどん勝つ楽しさを知っていきました。そのあたりから、「本格的な競技」として練習に打ち込むようになり、自然とのめり込んでいきました。
-小学生が本格的に卓球を上達させるための練習は、具体的にどのような内容なのですか?
徹底的な基本練習ですね。フォア打ちやバック打ちといった、身体に染み込ませるべき基本的なフォームや足の動かし方の練習を繰り返し行いました。あとは、指導者や仲間から「球出し」をしてもらう時間が非常に多かったです。平日は夜の18時から21時までみっちり3時間練習していました。
-毎晩3時間も!それはかなりの運動量ですし、高い集中力が求められますね。
今振り返ると、よくやっていたなと思います(笑)。メニューは誰かに指示されるのではなく、自分で「今日はこの課題を克服しよう」と主体的に考えて組み立てます。いろいろなコースや、回転の異なるボールをランダムに出してもらい、それを正確に打ち返す練習を繰り返しました。
お互いに球を出し合うことで、出す側も回転のメカニズムを学べるんです。自分で考えたメニューを消化し、最後の1時間くらいは実践的な試合をして一日の締めくくりとする、という理想的な流れでした。

-自主的な練習を通じて卓球の魅力にどっぷり浸かり、上達の手応えも掴んでいったわけですね。その後、中学校に進学されるわけですが、進学先は普通の公立中学校だったのですか?
はい、ごく一般的な地元の公立中学校に進みました。そこでももちろん、学校の卓球部に入部しました。
-地域の有力クラブチームで揉まれてきた実力者が、一般的な公立中学の卓球部に入ってみて、周囲のレベル的なギャップはどうでしたか?
正直にお話しすると、入学した1年生の時点で僕が部内で圧倒的に一番強かったです(笑)。
活動の軸はクラブチームに置いていて、中学校の顧問の先生からも理解をいただき、「部活には籍を置いてほしいけれど、普段の練習はクラブでやっていい。ただ、週に1回だけは部活の練習に顔を出して周りを引っ張ってくれ」と言われていたので、週に1回だけ中学の部活に参加していました。中体連の公式大会(中学生の公式戦)に学校代表として出場するために部活に籍を置いている、という少し特殊なスタンスでした。
-ということは、大会や試合に関しては、中学校の部活動としての大会にも出るし、外部のクラブチームが所属する連盟の大会にも両方パラレルで出場するという、多忙な日々だったのですか?
そうですね。両方のスケジュールを調整しながら、とにかくたくさんの試合をこなしていました。
-中学時代を通じて、ご自身の最高成績はどのようなものだったのでしょうか?
中学の時は、最も大きな公式戦である都大会(東京都中学校卓球選手権大会)で、個人戦シングルスベスト16という結果を残すことができました。
-シングルスでベスト16はすごいですね!
地区予選を勝ち抜き、区の代表として都大会に出場して、強豪私立の選手たちと競り合って勝ち取った結果なので、当時は自信になりました。一方よりハイレベルなクラブチーム側の大会でも最終的にはベスト16あたりまで進めるようになりました。どちらの大会も勝ち進むとだんだん同じ顔ぶれになってくるんです。
-中学に上がってからも、そのクラブチーム内での「ランク分け」は継続して行われていたのですか?
クラブチームの方は、中学生になったからといって優遇されることはなく、小学生も中学生も関係なく実力本位でごちゃ混ぜにされ、ずっと一貫してシビアなランキング制が敷かれていました。
体は小さくても信じられないほど強い小学生がAチームに混ざって大人のような球を打っていましたからね。年齢関係なく、強い者が上にいくという環境でした。
-そのようなシビアな環境の中で、ご自身の最高ランクはどこまで到達されたのですか?
最終的には最高峰の「Aチーム」まで上り詰めることができました。さすがに一番上の1位の座をキープすることは難しかったですが、上から数えて2番目か3番目くらいのポジションには常に位置していました。そこが僕のクラブチーム時代の一つの到達点でした。

-中学校の3年間もそうして部活とクラブチームをハイレベルに両立させ、本格的に実績を作られてきたわけですが、高校へ進学される際は、やはりその実績を引っ提げて「スポーツ推薦」で進まれたのですか?
はい、推薦入試を利用して進学しました。
-学校はどのように選ばれたのですか?
中学3年生の夏頃に、候補となる何校かの練習環境を見学するために、オープンキャンパスを兼ねて実際の部活動に練習参加させてもらいました。現役の高校生の先輩たちに混じって、実際にちょっと打たせてもらうんです。
その中で、部活動全体の雰囲気や指導体制、環境が自分に一番合っていると感じた学校に進学しました。
-ご自宅からは近い学校だったのですか?
いえ、遠くにある学校だったんですが、遠方からの生徒向けの寮がなかったんです。自宅から毎日通うのは朝練や夜遅くまでの練習を考えると現実的ではないということで、僕が高校に進学するタイミングで、僕と母親の二人で学校の近くにマンションを借りて引っ越しました。
-お母様と二人で引っ越しまでされたのですか!それは本当に家族総出というか、本気で上を目指して卓球に全てを賭けるための選択だったのですね。実際に名門高校に入学してみて、周囲のレベルの高さはどのように感じましたか?
非常に高かったです。当時僕が入学した時期はレベルの高い選手が揃っていて、学校の歴史的に見てもかなり強い時期だったみたいです。僕が在籍した期間は先輩方も含めて県内では敵なしという圧倒的な強さを誇っていました。
-全国レベルの選手たちに囲まれる環境に入り、ご自身の中で弱点だった部分が克服されたり、目に見えて強くなっていく確かな感覚はありましたか?
確かに技術的にも精神的にも大きく成長したと思うのですが、中学時代に比べて「とてつもなくしんどかった」という記憶が勝っています(笑)。
日々の練習メニューがハードですし、何より周囲のレベルが高すぎて、部内のレギュラー争いすら熾烈を極めていました。勝利を義務付けられるプレッシャーも大きかったです。

高校の練習風景:本人提供
-そのプレッシャーに打ち勝つために、高校時代はどんなことに取り組みましたか?
極限までミスを減らした安定感のあるプレイの確立です。それまでは堅実に一本一本を積み重ねて戦術的に勝つという方法をあまり深く知らなかったんです。高校の指導の中で、その泥臭くも確実な勝ち方を徹底的に教えてもらいました。
特に1年生の最初の頃は、自分の派手なプレースタイルを捨ててでも、安定感を極めることを意識していました。その結果、試合を優位に進めるための「堅実なゲームメイク」や、「サーブを狙ったミリ単位のコースに確実にコントロールして出す技術」などを必死に身につけていきました。
-サーブを自分の想定通りの場所に、寸分の狂いもなく確実に出せるようになるためには、やはり気の遠くなるような回数を何度も何度も繰り返すことだけが上達の道なのでしょうか?
本当にそれしかありません。何度も何度も、身体が自動的に動くようになるまで繰り返すのみです。朝早くや練習後の居残りで、1人で台に向かって何度も何度も球を打ち込みました。
そして、そこで掴んだ感覚を、今度は実際の対人練習の中で相手に向かって試してみて、「自分が想定した通りのレシーブが返ってくるか」「相手がどう嫌がるか」を観察しながら、微調整と工夫を繰り返す日々でした。
-ちなみに、野球におけるバッティングセンターや、テニスの壁打ちマシンのような、卓球特有の自動練習環境というのはあるのですか?自動で球が飛び出してくるマシン練習などは活用しなかったのでしょうか?
高性能な練習用マシンは学校にも置いてありました。ただ、マシンから放たれる球というのは、どれだけ進化しても「人間が実際にラケットで打った生きた球」とは回転の質やタイミングが決定的に違うんです。僕は当時、その違和感が拭えなくてマシンはほとんど使わず、生身の人間とラケットを合わせて練習することにこだわっていましたね。
-やはり卓球は感覚を繊細に研ぎ澄ます必要がある競技なのですね。
はい。だからこそ、たとえ1日でもラケットを握らずに練習をサボってしまうと、翌日には指先や手のひらの感覚が鈍って、違和感を覚えるようになります。
ラケットの角度がほんの1度ズレたり、振り始めるタイミングがコンマ数秒遅れたりしただけで、ボールがラケットの木枠(角)に当たってミスになってしまう。それくらい指先まで神経を張り詰めさせるスポーツなので、常に自分の微細な感覚をメンテナンスし続ける、まさに「自分自身との果てなき戦い」でした。
-高校での部活動のスケジュールは、やはり週7日、年中無休のような過酷さだったのですか?
基本的には週7日活動していました。平日は放課後から20時頃まで4時間ほどみっちり全体練習。朝練は強制はなかったものの、みんな自主的に早朝から体育館でサーブ練習などを黙々とこなしていました。土日は朝9時から正午まで動き、お昼休憩を挟んで17時まで1日中打ち込んでいました。
さらに夏休みなど長い休みになると、全国各地への遠征や強豪校との練習試合がギッシリと詰め込まれており、家でゆっくり休んだ記憶はほとんどありません(笑)。
-その過酷な高校生活の中で、ご自身として「よし、自分の実力が一段上のレベルに到達した」と明確な自信や手応えを掴んだのはいつ頃のことでしたか?
明確な転機となったのは、高校2年生の11月に開催された、県の新人大会でした。その大会の男子シングルスで、初めて「3位入賞」を果たすことができたんです。
それまではベスト8止まりなどで悔しい思いをしていましたが、初めて表彰台に登るほど勝ち進むことができました。選手層の厚い県の高校生の中でトップ3に入れたというのは、本当に大きなブレイクスルーでした。
-それは大きな転機ですね。周囲の評価はどうでしたか?
県大会で3位になったことで、それまで厳しかった監督からもようやく一人前の選手として正式に認められました。自分としても、厳しい練習の成果が結果として証明され、やっと一皮剥けたなという確かな手応えを得られた瞬間でした。団体戦では高校3年生の時にインターハイ(全国高等学校総合体育大会)に出場できたのがうれしかったです。

インターハイ県予選で優勝した時の集合写真(右端が本人):本人提供
-インターハイに出たのですね!会場と試合相手は覚えていますか?
はい、山梨県で開催されました。初戦の相手は岐阜の超強豪校でした。
-団体戦のどこで出たのですか?
僕は「5番手(最終シングルス)」としてエントリーされました。試合は大激戦となり、お互いに譲らずマッチカウント2対2のタイで、最後の試合が僕に回ってきたんです。まさに、野球で言えば9回裏2アウト満塁のような、会場全体の視線が1台のコートに集まる凄まじく熱いシチュエーションでした。
試合も一進一退の攻防となり、最終的にゲームカウント2対2のフルセット、しかもその最終セットの最後の最後までもつれ込む大激闘だったのですが、僅差で敗れてしまいました。負けた瞬間は悔しすぎてしばらく立ち上がれないほどでした。

インターハイでの試合中:本人提供
-壮絶なドラマがあったのですね...。高3でのインターハイの敗戦をもって、高校の部活動としては引退となったわけですが、その当時のご自身の進路については、どのように考えていましたか?
悔しい幕切れではありましたが、卓球に対する情熱が消えることはなく、大学に進学しても絶対に体育会で卓球を続けたいと強く思っていました。
チームの全員で力を合わせた団体戦では、最大の目標であった県予選で1位を獲得し、高校2年生と3年生の2年連続で学校の看板を背負ってインターハイの舞台を踏むことができた。
自分のこれまでの卓球人生の実績としては、この強豪校での県大会団体戦連覇と全国出場が、何よりも誇れる一番の財産になっていましたから、これを武器に次のステージへ進もうと考えていました。
-2年連続インターハイ団体出場という素晴らしい実績があれば、大学進学の際も、名門大学から声がかかってすんなり「スポーツ推薦」で決まったのではないでしょうか?
全国トップレベルの超一級の実績を持っていればスポーツ推薦で入学ができたかもしれませんが、僕はそこまでハイレベルな結果を残せていなかったので、推薦枠を勝ち取るために大学の練習場で行われる「セレクション(実技選考試験)」を突破しなければなりませんでした。
そこで大学生選手との試合で、今までに経験したことがないほどの緊張に襲われて、負けてしまったんです。結果、スポーツ推薦の道は閉ざされてしまいましたが、どうしてもその大学に進学したかったので、高校の進路担当の先生とも相談した上で指定校推薦の枠を得て、無事に入学することができました。
-執念で道を切り開いたのですね!大学の体育会卓球部で日々の練習を経験してみて、あの過酷だった高校時代よりもさらに厳しさが増す環境だったのでしょうか?
それが、大学になると、高校時代に比べて驚くほど全体の雰囲気が緩く、自由になるんですよ(笑)。もちろん、監督やコーチという指導者の方々はいるのですが、毎日練習場に張り付いて、目を光らせて怒鳴り散らすような厳しい指導は一切ありません。
部員全員が自主性を与えられ、自由に練習を組み立てられるようになります。サボろうと思えばいくらでもサボれるし、やろうと思えばどこまでも追い込める環境ですね。
ただ、僕自身の戦績については、全国から超ハイレベルな選手たちが集まっていたこともあり、全く勝てなくなってしまいました。伝統のある「関東学生卓球選手権大会」などの予選会には毎回出場するものの、大体2回戦や3回戦といった早い段階でハイレベルな選手と当たって敗退していました。

大学での練習風景:本人提供
-大学はレベルが高いのですね...。ではここで、技術を支える「卓球の用具」について専門的なお話を伺いたいと思います。長年競技を続ける中で、ご自身が愛用しているラケットやラバーにはどのようなこだわりをお持ちですか?
ラケットに関しては、高校生の時に手に入れて以来、グリップやブレードの感覚が完全に身体に馴染んでいるお気に入りの一本を、大学時代、そして現在に至るまでメンテナンスしながらずっと同じものを使い続けています。
自分の手のひらの大きさや指の引っかかり具合に完璧にフィットするように、木製のグリップ部分をヤスリで少しずつミリ単位で削ったりして、自分だけのオリジナルの持ちやすさを追求しています。
ブレードの内部に特殊な「カーボン素材」が編み込まれており、一般的な木材だけのラケットに比べてボールが当たった時に強く弾み、スピードが出やすい仕様のものです。製造メーカーは、世界的なトップブランドである「バタフライ(株式会社タマス)」のものを一貫して愛用しています。
-ラケットに貼る「ラバー(ゴム)」は消耗品だと思いますが、現役時代はどのくらいの頻度で新品に交換されていたのですか?
現役の時は、月に1回のペースで両面とも完全に新しいラバーに張り替えていました。毎日何時間も打ち込んでいると、ラバーの表面がどんどん擦り減って劣化し、ボールが引っかからずにスリップしてしまうようになるんです。
高校時代はラケットと同じバタフライ社製のハイスペックなソフトラバーを使っていましたが、大学に進学してからは心機一転、ライバル企業である「ニッタク(日本卓球株式会社)」のラバーにスイッチしました。個人的に、ニッタクのラバーの方が球持ちが良くてコントロールしやすく、安定感が増す印象があったんです。
ちなみにラバーにはボールの飛び出しスピードを速めるタイプのものや、表面にベタベタとした強い粘着性があり、ボールを強烈に掴むため、スピードは抑えられますが猛烈な回転をかけることができるタイプなどがあります。
-ラバーにもタイプがあるとは知りませんでした。卓球のラバーといえば、表面が「赤色」と「黒色」に分かれていますが、あの色分けにはどのような理由があるのでしょうか?
国際ルールで厳格に定められた規則です。必ずラケットの片面を赤、もう片面を黒(※現在はルール改定で他カラーも一部解禁)という風に、明確に異なる色を貼らなければいけないというルールがあります。
昔は両面とも同じ色のラバーを貼りながら、フォア面とバック面で性質の異なるラバーを貼る選手がいたんです。そして試合中にラリーの中でラケットをクルクルと手元で反転させて使う。そして対戦相手は相手が今どちらの種類のラバーで打ってきたのかが視覚的に全く判別できず、予測不能な変化に対応できずに負けてしまうという問題が多発したんです。
それがスポーツとしての公平性を欠くということで、「使用しているラバーの面を視覚的に一目で判別できるようにしなさい」というルールができ、現在の色分けが義務化されました。現代の公式試合でも、試合開始直前には必ず審判の前で対戦相手とお互いのラケットを交換し合い、どんな性質のラバーが貼られているかを指で触って入念に確認し合う「ラケット交換」の儀式がルーティン化されています。

-なるほど。テレビで卓球の試合を見る時に注目してみます。ボールについてはいかがでしょうか?
僕がちょうど大学に入学する前後のタイミングで、国際卓球連盟のルール改定により、ボールの原材料が長年使われていた可燃性の「セルロイド」から、非燃性の「プラスチック」へと完全に移行するという、歴史的な大変化がありました。
プレイヤーにとっては大きな変化で、プラスチック製に変わった当初は、製造するメーカーによって、ボールの硬さ、跳ね方に個体差・バラつきがあったんです。バウンドした時の跳ね上がる高さや、ラバーに当たった時の回転のかかり方がメーカーごとに全く異なるため、アジャストするのに苦労しました。用具の進化や変化にどう適応するかというのも、卓球というスポーツの重要な一面ですね。
-よく分かりました。ありがとうございます。では、これまでの長い卓球人生を通じて、どのような素晴らしい出会いや学びが得られたと感じますか?
卓球には感謝しかありません。妻とは大学の卓球部で出会いましたし、中学・高校・大学それぞれの時代に同じ苦楽を共にして、厳しい練習を一緒に乗り越えてきた卓球仲間たちとは、現役を退いて社会人になった今でも、定期的に集まっては昔話に花を咲かせてお酒を飲み交わし、時には卓球を楽しんだりする、生涯の親友になっています。
そして、卓球というスポーツを通じて得た最大の学びは、何と言っても「継続力」、そして「自走力」です。自分自身の現状を客観的に分析し、明確な目標を設定して、そこに向かって毎日一歩ずつコツコツと迷わず積み上げていく。
この地道な泥臭いプロセスを何年も継続できる力は、社会人になって別のフィールドで働くようになった今でも、間違いなく自分のビジネスの根幹を支える最大の武器になっていると確信しています。
-まさに今のキャリアに通じる力ですね。それでは最後に、それほどまでに人生のすべてを卓球に捧げ、打ち込んできたプレイヤーであったあなたが、大学卒業後のキャリアとして、なぜ全く未経験の領域である現在の「ITエンジニア」という職種を選択されたのか、そのドラマチックな転身の経緯を教えてください。
大学を卒業して最初に就職した会社では、一般的な営業職として2年半ほど身を粉にして働いていました。ただ、日々の業務をこなす中で、自分自身の市場価値や、専門的な能力が目に見えて伸びているという確かな実感がなかなか得られなかった。このまま同じ仕事を続けていたらどうなるのかと、焦燥感と危機感を覚えたんです。
そんな時期に個人でブログを書き始めまして、そのプロセスの中で、WordPressを使った作業に出会い、それが時間を忘れるほど最高に面白いと感じたんです。これがきっかけとなり、「もっと本格的に裏側の仕組みを理解したい、コードを書きたい」と、プログラミングの世界へ本格的に足を踏み入れることを決意しました。
-完全に独学でのスタートだったのですか?
はい、技術書やネット上の技術情報を貪り読んで知識を集め、自分でゼロからオリジナルのウェブサイトやポートフォリオを作り上げました。そして未経験OKの様々なIT企業に応募書類を片っ端から送りました。
特に、ユーザーの目に直接触れるデザインや動きを構築するフロントエンドの開発領域を作るのが最高に楽しく、本業の営業職をこなしながら、期間にしておよそ半年ほど死に物狂いで勉強を継続し、念願叶ってウェブ制作会社へとエンジニアとして転職を決めることができました。
周囲からは「未経験からそんな短期間でよく身に付けたね」と驚かれましたが、僕自身は全く苦ではありませんでした。自分の記述したコードで画面が動き、スキルが昨日よりも確実に伸びていくというその成長プロセス自体が、楽しくて仕方がなかったからです。
思い返してみれば、小学生の頃に外部のクラブチームに入って、自分でメニューを考えてボールを打ち込み、毎週のリーグ戦で上のチームへ昇格することにワクワクしていた、あの「卓球にのびのびとのめり込んでいった感覚」と、本質的に全く同じなんですよね。
領域は違えど、自分で課題を見つけて仮説を立て、反復して技術を磨き、昨日できなかったことを今日できるようにする。卓球で培ったあの「継続力」があったからこそ、未経験という高い壁も、楽しみながら乗り越えられたのだと思っています。
-卓球の経験とエンジニアの資質が、見事なまでに美しい一本の線で繋がりましたね。素晴らしいお話をたくさん伺うことができました。本日は貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました!
